100分待ちの絵画は 時間がないのであきらめ 北京故宮博物院200選を見てから 本館へ。
元永本 の素晴らしさに酔う。
大昔 初めてしっかり京劇を見た時 隈取りの下に人間の顔があるという意識がない
と思ったことを思い出した。
この休み この休み と思っていたのに 時間がどんどんたっていく
今年は あれも これも と頭に思うだけで ことを運んだつもりになり 疲れてしまう という 悪い癖をどうにかしなければ
どんな 初夢を見るかしら?
写真は 太田の庭の桜です。
菊鮨の細井さんが 私の家の古びた 貧弱なお重に詰めて下さった おせち
開けてご先祖様に報告 そして
皆様ご想像の通り 私は 感謝しながら勝手に二日早く 嬉しいお正月を迎えてしまった。
朝)間に合うか とドキドキしながら出かけたら ポストの前に車を止め荷物の整理をしていた郵便やさんに持っていた小包を渡すことができた。
60年代 アメリカで 配達をしている郵便やさんに ”待って 待って” と手紙を手渡しできることをうらやましく思っていたが このところ こちらでも 気楽に 人間ポストになってくださるので嬉しい。
昼)朝から ”今日はハンバーグ 今日は ハンバーグ” と呪文を唱えていたので 大満足
その後) シャトルバス乗り場で10年以上ぶりに会ったホテルマンに ”前より 元気で 若くなった” と言っていただく。
誠次さんの49日の日の印象が 彼の目に残っていたのかもしれない。
ロビーでの第九合唱を耳にしながら)誠次さんは良い時代の三越に週一度の医務室勤務をさせていただいていた。
大店とはこういうものか という暖かい扱いで 私を助けて下さったことにいつも感謝している。
両国のアパートのドアを開けると ライトアップされた スカイツリーが見える。
形に合う 大変品の良い光の色で この先が 楽しみ
明日のお客様への食料品を買って少し時間があったので 教文館へ
二階の階段前の棚にその時々並べられる本を眺めるのが楽しい。
東京駅前の丸善の一角にある。。本舗も楽しい。 こちらは入口にあった軸がなくなってそれまでのようにそれを見ながら 心の中で ウーッとうならずに中に入れるようになった。
教文館で今日求めたのはケルト神話の世界、和田芳恵先生のひとつの文壇史、伊吹和子さんとおっしゃる方の めぐり逢った作家たち
二年の時和田先生が女子高の講演会にいらっしゃり樋口一葉のお話をしてくださった。
その時 ”今日は皆さんに珍しいものを見せてあげましょう” とおっしゃって 一葉が使っていた 紅を 着物の懐からお出しになったのを覚えている。
こう書いていて思い出したが その二年あと 金田一京助先生が同じ講演会にいらして 校長室にあった私の書をご覧になり ”いやー 近頃は 女学生でもこんな作品を書くのですかねー” と、後からその場にいらした国語の先生に伺ったことによると おほめいただいた とのことだった。
めぐり逢った作家たち は一気に読んでしまいそうなので はしがき だけ読んで あとはとっておかないと 明日の準備ができない と思っているところ
谷崎潤一郎 の口述筆記を 又、当時の大御所の作家たちの担当を中央公論社で という方らしい
文壇 文士 格の違い ということが はしがきからだけでも 漂ってくる。
近場に直木賞をとりたい という人もいるけれど 私だったら あの人が撰者にいるのなら その人に自分の作品をどうだこうだ言われて 審査などしてもらいたくないのが現状 と思うのに と不遜なことを考えてしまう。
伊吹さんも 書いておかなければ というお気持ちが強くていらしたのだと思う。
この世の中で どんな人に逢ったか、逢っているか、 これから逢うか が 私の財産です。
法然上人八百年遠忌の今年の内に 太田の受楽寺の山額を無事仕上げることができたお礼に 知恩院に詣でたいと願っていた。
二年前 たまたま左甚五郎のわすれ傘を捜し、天井を見上げていた御蔭で勝部師にお目にかかり、最終的には願文の書き方までお教えいただくことができた。
今日同じ場所に立つとまるですべてが夢であったように思われる。
大勢の信者さんが長年参拝してすり減った廊下に手をあて 昔 イギリスで この広い緑の草の上をヘンリー八世が馬で走りまわっていたと聞いた時と同じ 絶えることのない 今に続く時 を実感した。
7日
京都での平家物語の夕べ 物怪之沙汰 を 語り 窪塚洋介、笛 藤舍名生 舞踊 GORI.
昼夜同じものを観る。
GORI氏のヘアースタイル、衣装ではまるで杜子春、平家に結ぶなら福原に来た唐人が 清盛に面会できず 困ってしまった という風。
物怪は うらみを持つことで自身が苦しんでいる個人 というより もっと広い世の中に対する 負の勢力としての規模の大きな存在ではないかしらん。
昼の部 物語の内容はさておき 藤舍氏の笛に合わせて踊る 中間の場面に感心。
しかし 夜の部の同じ場面に私はずっと好感を持った。
勝手に考えるのだけれど 夜の部のほうが 藤舍氏の GORI氏を 追いかけ 追いつめ 励ましながらけとばす演奏に GORI氏が 背筋を伸ばし 同じ舞台で立ち向かう姿勢になった気がした。
あの演奏で踊るのは大変なこと
公演の間の数時間をどう過ごしたのか 興味のわく 同じ演目観賞でした。
6日夜
写真の着物は20歳代のものです。畳紙に ピアノの前 と書いておきました。久しぶりに着たら前より似合う感じでした。
もう一枚の写真、これは 先日京都にご一緒した ドイツの方がこの広告を見て 通り過ぎてから 何か腑に落ちなくて もう一度よく見たら 4つの黒鍵 が混ざっていたことが分かり 大笑いした と言っていらしたもの。
実際に自分の眼で見ると 確かに おかしい。 でも 知らされていなければ 気づいたかどうかは 解らない。
せっかくなので ドイツの方と一緒にいた方にこの写真を送ったら ” 先生のご指摘をウィーン在日代表部、オーストリア観光局の友人に伝えたところ, 貴重なご意見ありがとうございました 、、、との回答が、、、” というメールが戻ってきた。
私じゃない!
小学二年の時 けんかをしていた男の子たちの一人が 廊下にいる相手の頭を教室の中からたたいてすぐに逃げ ぶたれた子が振り返った時 その光景を横でボーっと見ていた私が代わりに頭をコキンとたたかれた という事件を思い出した。 今でも他人事のように 教室の窓 腰板 廊下 おさげ髪 薄クリームのブラウス 臙脂の釣スカートの泣きもせずただ驚いていた自分の姿が目に浮かぶ。 私じゃない! という言葉も出てこなかった。
気持ちの良いお天気の午後神田古書店市へ
久しぶりに店内を覗くと 若旦那が白髪の主人になり母親、またその母親がいた場所に座っていたりして時の流れを 実感
インターネットで捜してなかった と聞いていた本が ちゃんとあったりして 良い気持ち
確かに あれ欲しい これ欲しい という時 パッと捜せて 入手できる という点で 大変助かるのがインターネットでの注文だけれど 本屋さんで 思わぬ展開 拡がりを経験する楽しさはたまらない。
インターネットでの本の入手はA子ちゃんにやっていただいているので 大きなことは言えません。ごめんなさい
来たからには と4時だというのに揚子江菜館に行って 古書店市特別焼きそば を いただいてしまった。 ちょっと恥ずかしかったけれど 次々人が入るので 面白い時間に たくさん食べる人も いるのだ と他人事のように 感心した。
お勧めに従い さぼうる でコーヒー。 おいしく頂きました。
大勢の人が 楽しそうに本を探している。
子供のころ書棚にならんでいた全集 話題になっていた本等を目にしながら 嬉しい時間を過ごしました。
それに
揚子江菜館で 以前いただいた白菜が忘れられず おみやげにして 先ほど 少々いただいたが これを口にしているときは どうぞお願い 何も私に話しかけないで という感じを独り堪能したことを付け加えなければ
クラスを終えてのエレベーターで日野原先生とご一緒になった。
“先生とエレベーター ご一緒できて 光栄です” と申し上げると ”これから三時からの 。。様の誕生会に伺うところです。ここでの会が伸びたので駆け込みです。” と答えてくださった。
エレベーターから車まで大股で まっすぐに足を伸ばされ さっさ とお歩きになる。
私の父は 90歳過ぎまで 老人という感じがなく 太田市で 100歳になると 百万円のお祝金をいただけるので それをいただいたら市のどこに寄付するか を楽しんで想像するのが常だったが それが 少しも不自然なことには思えなかった。
亡くなる数ヶ月前急におじいちゃまになり まず毎日を楽しもう という姿勢から 机の前で 殆どの時間を過ごすようになったので テレビに日野原先生がお出になると 私が ” 同じ年 同じ月日 の生まれのあちらは あんなにシャンシャンと、、、” と言うと 何か 嬉しくない という顔をした。
最後まで しっかり 生ききってくれた父にはとても感謝している。
1964年夏 二か月 私の家で生活を共にした アメリカ人の女子高校生 クリスティ が 66年に私とアメリカで再会した際 ”覚えている 日本語! いいきり いいきり!” と解らないことを言うので 様子を尋ねると ”悳子の口癖 気にしない 気にしない という意味で 常に耳にしていた。 だから 忘れなかった” と そういえば 心配性の母に対して しょっちゅう ”いいから いいから” と口答えしていたことを 思い出した。
これが私の本性なのだ とこの日曜日に改めて知ったのは、、、
大徳寺の大仙院で 京は初めてというドイツ人、 日本生まれの在日アメリカ人 と私を含め二人の日本人女性 計四人で 尾関宗園師にお会いした。
私以外は 英語を母国語のように使える。
アメリカ人男性は 臨済宗教徒。
私が持参したイギリスの苔の写真から 和尚さんがそこの廊下にあった結界を持っていらして
そこに書かれている 心径苔生 という言葉について説明してくださった。
和尚さんのお話は 早口でどんどん進み 話の内容は とんちの一休さんのお寺らしく 二転 三転
納得してから次へ などと思っていると ついていけないし その態度がそもそもだめ ということになってしまう。
いつもあわててノートをとるが 思い出しても キツネにつままれた様 というのが実態
解っていないけれど せっかく和尚さんが一生懸命良いことを 話して下さるし どうにか その渦のなかでも 初めての経験をしている ドイツ人に 断片のまま変な英語を まるで 流れる水を 隙間だらけの両手ですくって その人に向けてまき散らす という状態になってしまった。
いろいろな思いを重ねたうえで 仏教徒になられたであろう外国籍のかたと 南無阿弥陀仏の浄土宗の私の気楽さの間にはまことに大きな違いがあり ため息がでる。
“いいから いいから ” という言葉ではなかったが タクシーのなかで ドイツの方が 私が 安易にまき散らす 間投詞 をまねたので 久しぶりに クリスティ の件を思い出して 思わずその方の肩を叩いて笑ってしまった。
他の場面でも 早くその場で 何でも教えてあげたくて さんざ 間違ったことも言ってしまっていることに気づいた。 私はこうなのだ と反省した旅行だった。
でも さすがインパクトのある和尚さん 帰りの新幹線のホームで ドイツの方が いろいろ感じるところがあった事を 例をあげてらしたので やはり芸術家は本能的につかむところがあるのだなー と 安心し 嬉しく思いました。
良い一日でした。
ウクライナ大使夫人のオレナさんが 私が高校三年の時 朝日新聞社主催の第一回全国高校英語弁論大会で話した内容を知りたいとおっしゃって下さったので 何十年ぶりに引き出しから出してみました。
これは 書を教えていただいていた故柳田泰雲先生が 競書雑誌に載せてくださったものです。当時あわてて英文を訳したものですのでおかしな日本語ですが そのまま写してみます。
柳田先生が紹介文を書いてくださっています。
小澤悳子さんは太田支部長小澤恵雨氏の愛嬢.
去る11月に朝日新聞社主催の第一回全国高校英語弁論大会で関東代表二名の一人に選抜されました。決選で優勝5名の中には入れませんでしたがその実力は全国25名の中でも優秀な成績であったとのことです。
現在栃木県立足利女子高の三年で、本誌でも高校生中唯一の師範免状所有者です。この文章は英語で小澤さんが弁論された和訳です。
私自身の経験から
小澤悳子
日本のことわざに”へたこそ物の上手なれ”というのがありますが私はこれを本当だと思います.又ほかに”好きこそ物の上手なれ”というのがありますが、これも私は本当だと思います。
私は三歳の時書道を習い始めました。その頃は私の祖父や両親が熱心に習っていました。
彼等の影響で筆をとるようになりました。又はそうさせられたのかも知れません。
私は5人の大人の中にまじった、たった一人の子供だったのです。
三歳の子供にはほとんど漢字を書くことは不可能でしたが、それをまねる事により書けるようになりました。
私が五歳の時、父は毎朝6時から一時間ずつ寒くても暑くても、離れで練習させました。それは寒稽古、土用稽古と呼ばれています。寒い朝火の気のない広い部屋で、私は父に息で両手を暖めても良いと言われるまで、筆を動かし続けました。私は朝食の時の暖かいお茶碗がどんなにすばらしく感じられたかを忘れられません。
私は筆をもつようになってから14年間”へたな人でも絶え間ぬ精進によって、どんな芸術にでも進歩を示すことができる”という考えのうえに生活してきました。
ここで私が一生忘れられない心暖まる思い出をお話しようと思います。
私が小学校五年生の時のことです。上野松坂屋の7階ホールでの授賞式の際 特選以上の賞を得た人900人、その中に父母と私自身も混じっていました。 の前で、マイクが”群馬県の小澤悳子さん楽屋まで”と告げたのです。席上揮毫があることは知っていましたが私がそれに選ばれるとは夢にも思いませんでした。
日本書道の第一人者である柳田先生に筆をお借りして、横に草書で三文字書きました。先生は私のそばで微笑されながら見ていらっしゃいました。私は先生が私の作品を批評されて”横に書くのは大変むずかしいものですが、さすがに3歳からやっているだけあって字がきちんとあてはまり非常に立派な出来栄えです”とおっしゃられた時、どんな感じがしたか、とても言葉では言い表せません。
それ以来私の作品は5ケ年連続して皇太子殿下台覧の栄誉に浴しました。又 昨年柳田先生の学書院での師範試験に合格しました。これは16歳では日本で珍しいことだといわれます。
書の道を究めるのは非常にほど遠いことです。しかし人はたゆまざる努力によりそのきわみまで達することができます。
私は筆を手に一生を意義あるように生活していきたいと思います。もう一つの望みは、この日本独特の文化である書道を世界の人々に伝えたいということです。
今回 学習院女子大学で 一週間ほどの展示をさせていただいて 改めて思ったことは 学内で会う方々の優しさ 親切さ
6年間の目白での学生生活を思い出しても、 みなさん 優しく 学生に相対してくださっていた。
良い人たちが集まっているところでも 同じことを言われても カチン ときたり うるさい と 内心思うことは あって当たり前なのに 学内で働いていらっしゃる皆さんにそんな思いを抱くことは一度もなかった。
何十年もたった今 これは特異なことなのではないかと思ってしまう。
大学三年生のころ ”あなたにあげようと思って 孫の七五三の飴を とって置いたけど しばらく会わなかったので食べちゃった” と言った 守衛さん、新宿厚生年金会館での歌舞伎公演に奥方役で出た時見に来て下さった守衛さん
いろいろのことを思い出している
ありがとうございました