国立劇場 夜桜

2019.3.28

思わぬ拾い物

2019.3.26

ただ日にちの関係だけで切符をとった今日の国立小劇場での歌舞伎公演、

真山青果の元禄忠臣蔵御浜御殿  扇雀丈のセリフは良いが 相手役は声は良いのだが 気分が上滑りしている。

昔 真山美保氏が家にいらして興行を依頼され 断ることが不得意な父がああまた引き受けてしまった という母の声が 地方で台詞劇 というのもねえ という言葉と一緒に耳に残っている。

今日の舞台も拍手も多く皆熱心に聞いて楽しんでいたが 20年前だったらここでも拍手が起きたに相違ない というところがスルーされてしまっている。内容に思い至らない ということなのだろう。

ここしばらく ブログを書く言葉を思い描いてはいたが キーを叩くまでに至らなかった。

いろいろな考え方を認めなくてはいけない という今の風潮は かえって反対にその風潮以外のいろいろな考え方をすることは許されないのだ ということなのではないか? と 何か面白くない 諦めのような気持ちになっているのだと思う。

さて 次の出し物 積恋雪関扉 今まで見た大ベテランが演じるこの長い舞踊劇は退屈にしか思えなかったのだが 今日の主役の二人は素晴らしかった。

菊之助丈の溌剌としたきれ と古風な顔立ちの安心して見られる技量を持った梅枝丈。このような力のある若い女形の存在を知らなかった。

この二人 先が見えない世界にある時不思議と現れることがある 救世主 にならないかしら。

 

 

東京国立博物館 顔真卿 展

2019.1.16

オイルショックの後 誠次さんはアラビアにゴマをするために5年間に3回診療に行った。

その1回目の時 香港の乗り継ぎで買った筆をクウェートの税関で ’危ない 先が尖っていて武器になる’ とニヤニヤした係官に言われ 数日後に空港までわざわざ受け取りに行かなければならなかった  という話を久しぶりに思い出した。

もちろんアラビアに強い専門家と一緒に行ったのでいろいろな手配はできていたはずだった。

今朝 顔真卿展の出口から見始めたので 誰もまだその大きな部屋にはいず 私一人だったのだが 筆記用具を出してメモしようとしたら 係員が、、、

私が ’大丈夫です。これはシャープペンです。’と言ったら ’シャープペンもいけないことになりました、混んでいる時人を傷つけたことがあったとかで、、 これを ’とゴルフ場で使うようなペニョペニョした鉛筆をくださった。

そのうち ガンをつけたという騒ぎになるので 眼球を出しておいて行ってください ということになるかもしれない。

さて

思いがけず 一つの部屋に日本の名筆が置いてあることを発見。

宝の山に気もそぞろになってしまう。

昭和62年3月銀座で 春 今 春に想いを寄せて という題で個展をした時 コスモ石油の社長、中山善郎氏が ホッとする先生の個展をお祝いして という題で文を寄せてくださった。その中に

博物館から、’平安時代の文書を見ていてこぼれた涙の訳が知りたい、’という葉書が来たと思えば、かって私の机の上には現れたことのないスヌーピーの絵葉書に、’社長さんのお手紙で、何かがふっ切れたようです。ワーイ!’と書いてあったりします。

という部分があった。

この時からずいぶん時間が経って その間も細く長くずっとこの素晴らしい世界の中で過ごしてきている訳だけれど

今日 また目にした伊都内親王願文は世界の書の中で比類のない孤高の位置を占めているもの と実感した。

書いた人のことを その人物、人生の幸不幸 といった小さなことでなく、もちろん字が上手だ下手だ といった些細なことでもなく、人間としてこれを書いた人が存在した という事実だけが見ている我が身に染みて、 本場の中国でなく日本人によって書かれたものということが哀れで、 素晴らしいものが国を超え 時代を超え この世に生き続ける奇跡 がここにあるようで感無量だった。

 

 

懐かしい時

2018.12.31

12月29日

平成5年に営業を終えた帝国ホテルのフォンテンブローで青春を過ごした方達が 定年 また定年後も続けて数年を勤めあげる時が来ている。

20歳代 メインダイニングに行くのはまだ早いと思っていた頃 エレベーターからフォンテンブローの入り口まで10メートル位を案内するためだけが仕事の、お年のホテルの看板の男性が ’若い方にこそ来て欲しいところ’ と雑誌のインタビュー に答えていらしたのを読んで出かけたのが始めだった。

忙しい連れ合いと 月に一度くらいは ちゃんとお互いの顔を見てゆっくりきちんと食事をするのも生活のメリハリ と思い、村上信夫料理長が採算を度外視、勤めている方達にしっかりしたメニュー、サービス、味を残すために月に一度の会を催すようになられた時だったので 海外に行っている時やよほどの予定がない限り通っていた。

1テーブルに三人の係りの方がついてくださっていたのは知っていたが その三人のグループが8組あったとかで常時24人がチームワーク良く動いていたとか、

いろいろな話を聞くことが出来たのは 今夜その方たちの忘年会に混ぜていただいたから。

女性は会計にしかいなかった時代だったのでフォンテンブロー同窓会に参加した女性は私が初めてとか

折角の集まりの邪魔になってもと思い早めに失礼 と考えながらもある意味大雑把な活気にあふれていた時代の楽しい話を聞いていたらあっという間に時間が経ってしまった。

また味わいたい品をみんなで思い出したり、3番というテーブルだったと教えてもらったが、そのいつもの席からの景色を思い浮かべてなんとも懐かしい時間を過ごした。

勉強のための海外派遣も多く、出席の皆さんによると、今の人たちは知識を持って入社するが、当時は何も知らずに職について 職についてから なんでもが新鮮なので必死で勉強したとか

その必死で勉強した方達だからこそ定年後も いて欲しいと頼まれるくらいの位置を得たのだと思う。

この忘年会の前 村上先生のお墓参りに行ってきた。

先生が数歳の時お母様がなくなり その後を追うようにお父様もなくなってしまわれて そこから小説以上の先生の人生が始まったわけだけれど、そのご両親の倍以上のお年を重ねられたことがわかる墓碑に感無量だった。

そのうち先生がいつも見ていらっしゃる空の写真をご覧いただきますね。

 

ヒェーッ!

2018.11.21

談志まつり の切符をいただきよみうりホール21日昼の部へ

中入りの後 談志師匠の1967年録音の平家物語題材の噺

私自身は談志師匠の噺には昔から別に興味もなく 師匠と一緒にラジオに出ていた方から 大した人だ と感心している話しを聞いていただけだった。

若い時の伸びやかな声での話しぶりを聞いてその力の大きさを思い知った。

この音源での出演の後に続いて舞台に出る噺家は大変 と 自身も言い、談志師匠の実際の舞台を一度しか聞いていないという出し物を談之助師匠が

どうしてやらないのかと聞いたところ 面白くないから と言うのが家元の答えだったそうな

オレンジ色の衣装の師匠が落語で講談を両膝を両手でバンバン叩きながら熱演する姿が 芸人の哀しみのように思えて引き込まれたところでその噺の盛り上がりになった。

大阪で育った武智鉄二氏は 子供の頃寄席で父親に 笑ってはいけない と言われたそうだが 私はラジオの寄席中継でどっとお客が笑うと 今の笑いには品がない と母がよく言うのを聞いて育った。

後でロビーに張り出された演目表で それが 五目講釈 と言う噺と知ったのだが

口調は立派な講談なのだが内容はしっちゃかめっちゃかでその歌舞伎の名場面などが 映画で見るニューヨークのパレードでの窓からの紙吹雪、一時の蜷川氏の舞台の桜吹雪 といった豪華さで言葉が降ってくる。

私はもうだめ状態で 一人で そう 一人で ヒーッとかひぇーっとか あらぬ声を張り上げ一人で拍手 周りは白けたかもしれないが かまっていられない。 どうしてみんな笑わないのよ と思う余裕もない。

内容 言葉を思い出すすべもなく 帰ってから便利なインターネットで調べると

江戸人が好んだパロディー落語 できたのは明治中期 この当時すでにあまり口演されなくなっていたのでは  とある

これはなんだ!!!

もし私がお金持だったら 家のお仏壇の前に談の助師匠を招きこの 五目講釈 を演じていただき仏様と私一人で聞きたいと

そうしたら嬉しくてお位牌がカタカタと音を立てるのではないか と思ったら涙が止まらなくなった。

 

 

 

蘭の会書作展

2018.11.17

昭和六十年の夏 初めての会を銀座越後屋ギャラリーで開いて以来、

毎年、近頃は二年に一度 銀座で書展を開いている。

 

会場でしか会えない方 知人の知人だったり

実は近所にいることが解ったりして輪が大きくなって定着するケース

身辺の状況の変化で復活される方

遠い昔 一度お目にかかった方がずっと私からの書展の案内状に元気づけられていたと 十数年経って二度目の出会いとして会場にいらっしゃったケース 等

かつて会場内で活躍して下さった方々が見えない姿で戻ってそこにいらっしゃるのが解る気持ちがする。

大事な時間を皆様と共有していることを実感している毎日です。

 

明日、五時迄です。

ぜひ、お出まし下さい。

 

 

 

 

 

 

 

 

蘭の会書作展 パーティー

2018.11.14

オープンしたばかりの外国人記者クラブでの

パーティーの様子です

 

 

 

 

 

 

父親の持っていたカルタの絵を使って

知盛の説明をしています

蘭の会書作展

2018.11.14

大勢のお客様をお迎えし、元気に飛び廻っています。

皆様 今回会場が広くスッキリ より良くなったと言われておりますので

その進化をご覧下さいまし。

 

 

 

 

蘭の会書作展

2018.11.13

会場の様子です

 

 

小林旭さんの奥様が1960年代にモスクワ映画祭に

出席された時の写真を持つ私

 

 

父の描いた絵

 

金澤本萬葉集 臨書 と 字を書いた杯

 

空海  金剛般若経開題残巻 臨書

蘭の会書作展

2018.11.13

今日からです

 

 

小澤蘭雪 蘭の会書作展

2018.11.6

来週の火曜日、11月13日 からです

皆様のお越しをお待ちしております

いつもの通り、銀座鳩居堂さん4階 です

 

 

小林旭さんとブラームス弦楽6重奏曲第1番

2018.11.2

11月1日

今歌っていられるのは私の亡くなった連れ合いのおかげ と生前から30年以上ずっと盆暮れご挨拶いただいている小林旭さんへ感謝を込めてコンサートに。

私にとっては 小林旭芸能生活40周年記念 全日空ホテルでのステージにお呼ばれしてご親類の方達からも感謝の気持ちを伝えていただいて以来。

荒川区民会館のホールは同年代の人々で満席、2時間を休むことなくおしゃべりと歌でダレる所もなくあの声で観客を引っ張っていく。

一緒に行った友人達も声量、声の高さを維持していることに驚き 思えばオペラ歌手の体型だ とふくよかさを納得。

一芸に秀で、変わらぬファンを持つのは いろいろなことがあったであろう今までのことを決して愚痴らず 人の悪口を言わず 自分の立ち位置がぶれない姿勢にあるのではないかと思う。

奥様が素晴らしい方でいらっしゃる

夜 もう一つの音楽会でブラームスの弦楽6重奏曲第1番を

一番好きな曲の一つなのだが ずーっと聞いていた盤が 各家のカレー 母の味 と同じで 自分にとってはかけがえのないものになってしまっている。

チェロの代わりにコントラバスだったせいなのかもしれないが  ”私の好きな人はあなたじゃない!” といった勝手な思いのまま家に帰ってすぐ自分のCDで聞き直してしまった。

熱演だったのにごめんなさい。

お不動様と般若心経

2018.10.28

10月28日

27日のお昼、夕方6時 そして今朝5時半 と善光寺様にお参りを。

母の実家は 善光寺様から 歩いて15分くらい、三輪相ノ木 という善光寺様への人波で常にあふれていた街道で 叶屋 という菓子店だった。

父の母(父が小学生の時に亡くなり 私はお茶のお点前をしている若い美人さんの写真を見て育ったのでおばあちゃま と言いずらい)もそこの出なので 小さい時から長野は私にとって 身近な場所。

さて 何十年もの間毎朝5時前後に起きて善光寺様に通っているいとこに今朝は同行。

数年前NHKの新日本紀行にいとこの朝参りがゆっくり取り上げられたことがある。常に自然体のいとこが番組担当の方に気に入っていただいていたというのがよくわかるなかなか良い内容だった。

境内あちこちお参りして歩きながら6時28分にお上人様がお出ましになる玄関前に場所取りのバッグを置いて また 常連のみなさんと挨拶を交わしながら境内巡りを。

お玄関に一番近い場所はいとこが という長い年月かけての実績への暗黙の了解があるようだ。

宿坊の方が案内してきた旅行者の方たちも30人目くらいの場所に案内されている。

集まるのは慣れている人たちなので直前までピーチクパーチクと賑やかだがさすがにお出まし直前にピタリと照準が合い体制が整う。

石畳の前に膝をつき 頭を垂れていると 御数珠がしっかりと置かれたと同時にお上人様の体の向きが変わったと思ったらお袈裟の中に頭が入ってしまった。

焚き込められたお香の香りが素晴らしく一瞬別世界に誘われた。

その後 数カ所のお堂を巡りながらお経をあげていく和尚様たちと一緒の堂内に座ってお経を唱えるいとこの後を追ってありがたく忙しい時間を過ごした。

28日はお不動様の日ということで その堂内に響く般若心経を聞かせていただき鐘の音の余韻を最後まで聞いていたら 気づいた時には私一人になっていて もう違う場所に移って違うお経を唱えているいとこを探し あわてて追いつかなければならなかった。

やれやれ

ということで

お不動様と般若心経にあふれた10月後半 でした。

 

 

こちらは我が家のお不動様です

 

お不動様と般若心経 その二 仁和寺

2018.10.15

10月15日

これを最後にこの世ではもう会うことのできない別れという場面が平家物語にはたくさん出てくるが

平経正が琵琶 青山 を法親王に返しに来る場面で有名な仁和寺。

数年前湖水地方からの団体知人 と一緒に訪れて以来。

この度は372年ぶり 初めての金堂背面壁画公開に

陽の当たらない場所だったからというが 今描かれたばかりのような色鮮やかな五大明王のお姿

ここでも中央のお不動様に親しくご挨拶を。

外に出ると遠くから般若心経の合唱が聞こえてきた。

良い時に巡り合わせた と喜ぶ

先ほど説明の和尚様がもし間に合うようなら経蔵を見るように と言ってくださったので 中に入ってみる。

薬問屋の絵に見るような引き出し それぞれに一字の漢字、中には全て違う一千以上の経文が入っているとのこと

ゆっくり中を巡って戸の外に出ると 先ほどの心経合唱隊の和尚さんたちが階段の下に並び始めていた。慌てて建物の隅に移動するとそこの下にも列の端に立つ和尚さん。

お経をあげていただく立場にない私は焦って隅の奥に。

でも見物に集まって来る観光客からは見えてしまうし端の和尚さんの目の先であることには変わらない。

意を決して下に滑り降りた。

やれやれ

ということで お不動様と般若心経の一日でした。

 

経蔵の前で般若心経を唱える和尚さん達

 

 

経蔵の内部

お不動様と般若心経 その一 大覚寺

2018.10.15

10月15日

60年に一度の公開

平成30年厳修 嵯峨天皇宸翰 勅封般若心経1200年 戊戌開封法会 に大覚寺を訪れる。

般若心経 最後の一節をお寺について説明してくださる和尚さんと一緒に唱えてから進んだ心経殿、 中では二人の和尚さんが心経を唱えながら陳列ケースのガードを勤めていた。

幸い4人の入室だったのでゆったりとした気持ちで拝観できたが 部屋を出るとき 一方通行で戻れないことに気づき、’ごめんなさいもう一度’ と ちょっととまどった和尚さんがお経を続けてくださる中一人でもう一度見せていただいた。

これぞ初期平安文化の宝物 としみじみと体の中に染み透るありがたいものだった。

宝物館の仏像、肖像画も懐かしいものばかりだったが 復元模写の紺綾金字勅封般若心経 に感銘した。

昨年4月から製作を始めたとあるが経文の模写を書家でなく 源氏物語絵巻復元を手がけた (有)六法美術の富澤千砂子氏がされた とある。

自我を出さないためという考えに賛同。

おだやかで とても素晴らしいものだった。

五大明王の内 お不動様は私の守り神なので親しくお参りをする。

30年位前に父母と訪れた時 お寺自体がもっと広大な敷地に建っている印象があったので 大沢池はこんなに小さかったのか と感じる自分の変化に驚く。

写経の筆ペンが大変書き易く 普段の三分の二くらいの時間で書けてしまった。

御霊殿の後水尾天皇像に 昔團十郎丈が自作自演した修学院物語に感激した気持ちのままに 親しみを覚え ’いろいろ大変でいらっしゃいましたね’ などと語りかけてしまった。」

 

 

 

幼い門主のために描かれたという障子の腰板