山田寺

2019.6.6

5月31日

貫名菘翁の 山田公雪冤碑 を 楷書としては最初に 菘翁研究に深く携わっていらした伊藤神谷先生にお教えいただいた。

字を書くことだけを考えていたので 内容については通り一遍にしていた。

先日 たまたま時間つぶしをした書店へ気持ちとして軽く求めた永井路子氏の 美貌の女帝 を読み 持統、元明、元正 三人の女帝と山田寺創建者 蘇我倉山田石川麻呂 とのつながりを知った。

今回 予定していた奈良での陶器への字つけ?はこの先への様子見、試しに止めることにして

一日を観光バスでの飛鳥周遊、次の半日を山田寺行きにあてることにした。

’何もない所に行ってなにをやらはるのですか?’ と不思議がりながらも陶器の先生は一時間半程かかる誰もいない山田寺跡にお連れくださった。

すぐ古代の出土品を掘り当ててしまうので そういう時は ’今のは見なかったことにしよう’ と皆で言って工事を進めてしまう という話を子供の頃耳にしたものだったし 古墳のようなものも多い土地に私は育ったが それは皆歴史以前の事物 おおらかで気楽な風景だった。

しかし 今回 大神神社、明日香コースで ガイドさんの説明を聞きながら古墳、神社仏閣を移動していると そこに生きた人々の生々しい人間関係が複雑に一緒に身の回りに付いてくる感じがした。

蘇我倉山田石川麻呂は讒言によりその寺 金堂前の礼拝石上で自殺、 のちに荒れた寺を再建、雪冤を果たした天武天皇の妻 持統天皇は石川麻呂の孫、下って天保12年に子孫の山田重貞が 菘翁に書かせたのが 山田公雪冤碑・

と いろいろ学び、前の日の重い気持ちを引きずって行った先は何もない空間だった。

低い丘や木立に囲まれ 最初それほど広く思えなかったが 申し訳のようにポツポツと立つ標識を見ながら歩いて廻ると大変大きな場所だったことが実感できた。

本当に何もない 音もない が 様々な濃淡の緑の季節、足元は黄色い花に一面覆われている。

人々の絡み合いや悲しみすべてが空気の中に吸い込まれてしまっているようで 何かほっとして 安らぐ気持ちになってきた。

裸足になって少し高い金堂跡に立ってみた。