時は流れ 種は実になる

2017.7.6

麻布のアメリカンクラブで書のクラスを担当していたことがある。

熱心に通っていたアメリカ人の女性が家族と一緒に数日間急に来日した。

20年ぶりに会うと 100円持って麻布十番の鯛焼き屋さんに行くのが好きだったというお嬢さんは勤めを始めているし息子さんはこれから弁護士になるところでもちろん背も親より大きくなっている。

太田の家に遊びに来た時我が家のお墓に連れて行って 大きな自動車会社の東洋支社長をしていた旦那さんに私の手には負えない強い草を抜いてもらったら彼の手から血が出たことが忘れられなかったが彼らにとってもそれは面白い思い出になっていたらしい。

今日は自分が慣れ親しんでいた外国を再び訪れる機会を目一杯楽しんでいるのがよくわかって一緒にいた私も嬉しかった。

一つの文字に対し カタカナ ひらがな 楷 行 草を全部一度に習うのは大変だったが 言葉の意味 それに関する雑学的なことなども知ることができて楽しく有意義なクラスだったと言われた。

彼らは本社のあるミシガン に住んでいるので ”親類のような家族が住んでいたウィスコンシン州の小さな町オークレアに何度か行って そこからミシガンに行ったことがある” と私が言うと ”昨日仕事で頼んだ正式通訳はオークレアの大学に留学していたと言っていた。”とその偶然にびっくりしていた。

”では日本の上智大学の人ね。” と私が言うと ”そう そう言っていた。”と

1964年夏私の家にAFSの留学生として2ヶ月滞在していたクリスティの父親はウィスコンシン州立大学オークレア校の学長に大変若くしてなり学校を発展させた人だった。

子供が日本にくると決まった時点では彼らにとって日本はトルコと同じくらい身近でない外国だったらしい。

クリスティは毎日細かい字で手紙を書き留守宅では それによって日本のいろいろな場所 人々その他を知ることになった。

私の父母が せっかく日本に来たのだから日本を知らせる為に彼女の時間を使う、と英語での社交から極力彼女を遠ざけ広島・岡山 京都、法隆寺の夏季講座 その他を私と二人で回らせた。

1966年に私がオークレアの家に3週間いた時には人が集まるいろいろなところで  クリスティが撮った日本のスライドを見せながら二人で日本についてしゃべったり 歌を歌ったりした。

その話を聞いた人が今度はこの集まりで話をしてほしい と頼んでくることも多く女の子二人はなかなか忙しい日々を送ることになった。

さて 感覚的に日本が近くなった為姉妹校を日本から ということになったらしく 数年の間に上智 関西大 と提携を結んだ。

というような懐かしいことを今日の話題からパーっと思い出し きっかけがあれば無から生じるものがあることを実感した。

何の見返りも期待せず あるがままの姿勢で人に相対してきた呑気な両親の撒いた種が誰も知らないところで実になっている、と感謝している。