東京国立博物館 顔真卿 展

2019.1.16

オイルショックの後 誠次さんはアラビアにゴマをするために5年間に3回診療に行った。

その1回目の時 香港の乗り継ぎで買った筆をクウェートの税関で ’危ない 先が尖っていて武器になる’ とニヤニヤした係官に言われ 数日後に空港までわざわざ受け取りに行かなければならなかった  という話を久しぶりに思い出した。

もちろんアラビアに強い専門家と一緒に行ったのでいろいろな手配はできていたはずだった。

今朝 顔真卿展の出口から見始めたので 誰もまだその大きな部屋にはいず 私一人だったのだが 筆記用具を出してメモしようとしたら 係員が、、、

私が ’大丈夫です。これはシャープペンです。’と言ったら ’シャープペンもいけないことになりました、混んでいる時人を傷つけたことがあったとかで、、 これを ’とゴルフ場で使うようなペニョペニョした鉛筆をくださった。

そのうち ガンをつけたという騒ぎになるので 眼球を出しておいて行ってください ということになるかもしれない。

さて

思いがけず 一つの部屋に日本の名筆が置いてあることを発見。

宝の山に気もそぞろになってしまう。

昭和62年3月銀座で 春 今 春に想いを寄せて という題で個展をした時 コスモ石油の社長、中山善郎氏が ホッとする先生の個展をお祝いして という題で文を寄せてくださった。その中に

博物館から、’平安時代の文書を見ていてこぼれた涙の訳が知りたい、’という葉書が来たと思えば、かって私の机の上には現れたことのないスヌーピーの絵葉書に、’社長さんのお手紙で、何かがふっ切れたようです。ワーイ!’と書いてあったりします。

という部分があった。

この時からずいぶん時間が経って その間も細く長くずっとこの素晴らしい世界の中で過ごしてきている訳だけれど

今日 また目にした伊都内親王願文は世界の書の中で比類のない孤高の位置を占めているもの と実感した。

書いた人のことを その人物、人生の幸不幸 といった小さなことでなく、もちろん字が上手だ下手だ といった些細なことでもなく、人間としてこれを書いた人が存在した という事実だけが見ている我が身に染みて、 本場の中国でなく日本人によって書かれたものということが哀れで、 素晴らしいものが国を超え 時代を超え この世に生き続ける奇跡 がここにあるようで感無量だった。